海燕社についてリンクサイトマップ


ホームプロフィール作品紹介コラムフォトアンケート上映日程購入案内
12年に一回の神事・イザイホウは終りました。
潮が引くように、大勢の人々が島から出て行きます。久高島は元の静かなたたずまいを取り戻します。出会う島人は、みんな決まってホッとしたような笑顔をみせます。厳粛な神事から解きはなたれた安らぎを、覚えていたのでしょう。私たちも、歴史的な素晴らしい時間を共有できた喜びを感じておりました。

新しい年(1967年)を迎えました。
久高島では、すべての行事が陰暦で行われますから、新正月は何もしないのです。

「海へ行こう、泳ごう」

私たちは、心ときめかせて海へと歩き出しました。久高島へ来て、初めて海へ入るのです。しかし、南国沖縄でも正月は結構寒いのです。波も相当荒いのです。私たちは、岩にたたきつけられないよう気をつけながら、おそるおそる元旦の海へ入って行きました…
そんな海岸へ、ドラム缶を担いだ人が現れました。掟神のNさんです。Nさんは、私たちのために即席の風呂を沸かしてくれました。震えながら海から上がってきた私たちは、ドラム缶の風呂に入って温まりました。三ヶ月間、井戸水で体を洗ってきたのですから、久高へ来てはじめての入浴でした。
ドラム缶の風呂に身を沈めながら、私たちは三ヶ月余にわたる心あたたまる島人との交流を思い起こしておりました。
もう別れのときが迫っているのです。
これは話さないつもりでしたが、やっぱり聞いて頂くことにします。
「イザイホウ」が終った後のこと、私をたずねて中年女性が久高島へ渡ってきました。「イザイホウ」の新聞記事に撮影班の名前を見て、もしやと思い、尋ねてこられたのでした。沖縄戦の時、野戦病院壕で私の父と一緒に働いていた看護婦のTさんでした。
父は北陸の寒村で開業医をしておりましたが、1944年に召集され、軍医として沖縄へ派遣され、沖縄戦で戦死したのです。1965年に私が初めて沖縄へきたのも、父の終焉の地を一目見ておきたいと思ったからでした。
Tさんは私が一緒に働いていた軍医の息子であるとわかり、野戦病院の毎日の様子、そして父のことなどを熱っぽく語ってくれました。そして帰京前沖縄本島へ渡った時、そのガマ(壕)に案内して下さったのです。
彼女にとって、21年ぶりのガマでした。

…ここの両側にベッドが並んでおり、奥に処置室があり、いつも、うめき声や叫び声が響いておりました。麻酔薬などありませんでした。大勢で押さえつけ、切り裂き、切断したのです…

Tさんはガマへ入りながら当時の様子を憑かれたように語り出したのです。そして、走りこむように、ガマの中へ入ってゆきました。気がつくと、彼女は何も語ってはいませんでした。立ち止まって奥の方をじっと見つめているのです。そして声もなく涙を流していたのです。
Tさんたちがガマを出たのは6月23日だったといいます。 その時父は、まだガマに残っていたそうです。その後はまったく消息が知れません。
敗戦の翌年、公報が来て6月10日戦死となっておりました。しかし本当は6月10日にはまだ生きていたのです。その後、寺院で遺霊祭があり、遺骨を受け取りに行きました。
家に帰ってあけてみると、一片の紙切れに父の名が書いてあるばかりでした。

Tさんは後年、北陸の草深い我家の墓まで墓拝りにたずねて来て下さいました。
本当に有難いことでした。
あの港の別れは心に焼きついて忘れることが出来ません。
沖縄本島が遠望できる西側の桟橋(今はもうない)を、まさに出港しようとする連絡船に私たちが乗っています。桟橋には見送りに来た十数人の神女たちが立っています。
エンジン音が高まり、船が島を離れて行きます。
神女たちは涙を流しながら「行ってらっしゃい」「行ってらっしゃい」と口々に言い、手を振って別れを惜しんでくれました。
私たちも何か叫んでいたように思います。
永い映画人生で、ロケーションに来て餞別もらって (前日、神女たちから餞別をもらっていた) 涙で送られた経験は、後にも先にもこの時しかありません。
私たち3人のスタッフは、神女たちからもらった餞別をもとに、船で鹿児島までたどりつきます。
しかし、そこからの旅費がありません。
さいわいその時、私は結婚祝いにもらった、ちょっと高価な時計をもっておりました。
さっそく、質屋へ飛び込みました。行き当たりばったりです。ところが偶然質屋の息子が東京の某録音スタジオで働いていることがわかったのです。
そのスタジオは、私たちがいつも利用していた録音所です。名前を聞いても、その人はわかりませんでしたが、たちまち質屋のオヤジさんとうちとけて東京の話・録音所の仕事の話などで盛り上がりました。
オヤジさんは口調をあらためて
「わかりました。3人分の旅費と宿泊費ですね。用立てましょう」
と、途中の食費まで含めた十分な金額を貸してくれました。あの時計にそれだけの価値があったかどうかわかりません。
そうして東京駅にたどりつき、三ヶ月余にわたる私たちのヤジキタ珍道中は終りを告げたのです。
多くの人にお世話になった旅でした。そして、実に楽しい旅だったのです。
イザイホウ撮影当時のことを思い出すままに書き綴ってきました。
41年前、久高島で過ごした三ヶ月余の日々は、昨日のことのように心に焼きついています。その前後の時の流れの中で、あの三ヶ月だけはまさに別天地だったのです。
久高島の風土と島人の暮らしの中で、私たちは夢の中を生きているように流れておりました。そのせいでしょうか、私たちは普通では考えられないくらい妙なずうずうしさで島を楽しんでいたように思います。
呼ばれもしないのにお祝いの家へ押しかけたり、用もないのに一軒一軒訪ね歩いたり…
よくもまあ、と思わずに入られません。ところが、出向いたお祝いの家では「よく来てくれましたねえ」などと膳部まで用意して歓迎してくれましたし、訪ね歩いたどの家でも嫌な顔一つせず、いろいろ話を聞かせてくれました。

また、こんなこともありました。
クボウウタキに大勢の神女たちが集まった時(御願立の儀)のこと。私たちは神女たちの行列の後をおい、一緒にウタキへ入ってゆきました。ここは本来男子禁制の場で、私たちなど入ってはならない神聖な場所だったのです。
私たちもそのことは聞いてわかっていたのですが、抑えることが出来なかったのです。
そうして私たちは「御願立」の儀を撮影しました。そんな私たちを誰もとがめだてをしませんでした。

その夜、ノロ家へみんなであやまりに行きました。何か大変な事をしでかしたと思ったのです。しかし、ノロさんは私たちが話し出す前に「あんたたち何も言わなくていいんだよ。神様には私があやまっておいたから」と言ってくれたのです。私たちはノロさんの温情に救われたのでした。

そのことがあって以来、私たちと神女たち、島人たちとの垣根がとり払われたように思います。
そして、久高の神様とも…

私たちは、許されたる者の思いでイザイホウの中へ溶け込んでいったのです。(終)
前のページへ 海燕社トップページへ
PAGE TOP

Copyright(C)2010.kaiensha.All Rights Received