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私たちが上映とDVD普及に取り組んでいるドキュメンタリー映画「イザイホウ」(49分)の製作にまつわる裏話を、思いつくままに話してみたいと思います。そうすることで、なぜ私たちが40年間埋もれていたこの作品を、敢えて掘り起こし、みなさんに見ていただこうとしているのかわかってもらえるような気がするからです。(G.N.)
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この映画は、1966年に撮影し、翌年に仕上げたモノクロ16ミリフィルム作品です。
普通映画製作は、上映することを目的にスタッフ編成とスケジュール、予算を組んで製作されます。私たちの映画「イザイホウ」は、そんな普通の作品ではありませんでした。
1965年、初めて沖縄へきた私は、沖縄島の東に神の島といわれる小島があることを聞き、フラッと渡ったのでした。久高島は私に並々ならぬ印象を与えました。その清冽な風景、そこで人間生活の原型のような暮しをするやさしく気品に満ちた島人 − ここでは、年間30にも及ぶ祭を通して島の暮しが営まれています。そして私は翌年に12年に一回の祭、島の女が神になる、久高島最大の神事イザイホウが行われることを聞いたのです。東京に帰って仲間に話すと、撮りたい、撮れないか、ぜひ撮ろうとたちまち決まってしまいました。
当時私たちは、みんな映画、テレビ、CFなどの仕事をしていました。翌年、仕事の整理をし、私たちはなけなしの金をかき集めて撮影に取り組むことになったのです。
いってみれば、ゲリラ的製作でした。
そんなわけで、私たちの撮影行には、通奏低音のようにビンボーがつきまとうことになります。しかし、必ずしもビンボーがマイナス要因ばかりではなかったことを、話が進むにつれて皆様にはわかっていただけると思います。
当時、ドキュメンタリー映画やテレビの撮影には、どこでも西ドイツ製の「アリフレックス」というキャメラを使っていました。しかし、私たちビンボースタッフには、このキャメラを用意することができません。10日や20日間ぐらいなら借りられないことはありませんが、そんな短期間で撮影するつもりはありませんでした。仕事でなく楽しみで撮るのですから、島への滞在は長ければ長いほどよかったのです。
そんなわけで、安く借用できるキャメラをさがしました。フィルモやボレックスという手巻き式のキャメラはありましたが、それらは1カットせいぜい20秒そこそこで、長まわしが出来ません。どこかにいい出物がないものかとさがしていたところに、耳寄りな話が聞こえてきました。
その頃の東京には、映画の機材屋がいくつかありました。その一つに、アリフレックスそっくりなキャメラを手造りしている機材屋があり、さっそく訪ねてゆきました。
それが「ドイフレックス」との出会いでした。
テストをすると、結構いいのです。機材屋のおやじは、気に入ったら使ってくれ、いくらでもいい、といってくれました。
私たちは、このキャメラに決めました。ズームレンズなんかはありません。広角、標準、望遠の3本の単レンズを交換しながら撮らなければなりませんでした。
ちなみに機材屋のおやじは名前を「土井」といいました。
こうして、私たち3人のスタッフは、「ドイフレックス」を1台もってイザイホウ本祭の2ヶ月前、待望の久高島へ上陸したのです。
1966年10月のあの日のことを忘れることができません。私たちは、神世の時代へタイムスリップしたような気持ちにとらわれたのでした。
久高上陸の翌日から、毎日憑かれたように島中を歩き回りました。美しい砂浜、せまる岸壁、そこに並んだ用途を異にするカー(井戸)、クバの林、幾つもの神の森(拝所)、箱庭のような村落の家や道、海辺にひっそりとたたずむティラバンタ、 − そんななかで島人は、男は海へ、女は原へと人間生活の原型のような暮しをしておりました。浜辺のサバニのかげで魚網をつくろう老人、畑で働く子連れの女、漁から帰ってくる男、遊びまわる子供たち。私たちは、出会う人みんなに話を聞きました。外で出会う人ばかりでなく、家々を訪ね歩いて話を聞きました。どこそこの家に祝い事があると聞けば、呼ばれもしないのに、50セントをつつんで押しかけてゆきました。島の祭(久高には年間30もの祭があった)には、すべて参加しました。島人と一緒にニガナあえのサシミを食べながら島人の話を聞きました。1ヶ月もするとほとんどの島人と顔なじみになっていました。親しく付き合う人も何人もできてきました。その間私たちは1カットも撮影してはおりません。そんななかで、だんだん島人の死生観がわかるような気がしてきたのです。
その頃から少しずつ、島の風景や島人の暮しの断片を撮影し始めました。
私たちに与えられた宿舎は、しっかりしたヒンプンと石垣に囲われた格調高い屋敷でした。それもそのはず、久高島で一番古い、ムトゥといわれる大里家だったのです。その頃、大里家は子孫が死に絶えて、無住の空家でした。しかも大里家は、第一尚氏最後の王、尚徳の恋人だった名高いノロ、美人の誉れ高いクニチャサの生家だったのです。
その悲恋を人々は次のように伝えています。
尚徳王がクニチャサと恋に落ち、政治を忘れて久高ですごすうちに、城内で反乱が起こり、急遽帰ろうとするが、絶望のあまりその船から身を投げて死んでしまう。悲しみに打ちひしがれたクニチャサは、家の前のガジュマルで首を吊って死んでしまった。
大里家に向かって右に小さな森がありました。そして、この木がクニチャサの首吊りの木だといわれるガジュマルもありました。私たちは毎日その木を眺めながらクニチャサを想い、王位を簒奪された尚徳王を想ったものでした。
15・6世紀の沖縄をイメージするには、久高島は絶好の島であったし、大里家の宿舎は、最高の宿舎だったのです。
私たちは毎晩のように、前の森を見ながら昔の沖縄を語り合ったのでした。
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