海燕社についてリンクサイトマップ


ホームプロフィール作品紹介コラムフォトアンケート上映日程購入案内
一日の撮影が終って、夕方宿舎へ帰ってくると、大盛りのサシミが置いてありました。そのおいしそうなサシミ皿をみんな、様々の思いで眺め入りました。
「幻覚じゃないんだろうね。」
するとそこへ数人の漁師たちが酒を持って入ってきたのです。疑問はたちまち氷解、楽しい酒盛りの開宴です。こんなことがたびたび行われるようになりました。そんな翌日には、前夜の漁師の奥さんたちが野菜や芋を持ってきてくれました。私たちはロケ費が底をついたというのに、前にも増して優雅な食生活をおくることになったのです。ニガナを採集したり、魚釣りをする必要もなくなり、イザイホウのことだけを考えておればいいのです。もうこうなると外来の撮影班ではありません。神事にかかわる島人のようなものでした。

本祭が近づくと沢山の報道関係者、観光客が入ってきます。無遠慮にあちこち歩き回られたのでは、たまったものではありません。その前に、島の若者たちで、報道管制をしくことになりました。縄張りをして、立入禁止の紙をぶら下げるのです。
私たちも、ごく自然に島の若者たちと一緒に、立入禁止の張り紙をはって回りました。

祭の二・三日前から大勢の人々が入ってくるようになりました。島の外に働きに出ている島の人たち、報道関係者、学者や文化人、一般の観光客などで島は膨れ上がりました。
私たちは、そんな外来者とほとんど接触することなく、神事の進行にとけこんで行ったのです。
島へ上陸した学者や文化人、そして報道関係者は目を光らせて歩き回っておりました。祭関連の場所を見、写真を撮り、島人に話を聞くのです。その真剣な姿は見ていて本当に怖いくらいでした。私たちにもひとりでに緊張感が忍び寄るような感じでした。

そんななかで、いつもたった一人、にこやかな表情で飄々と歩いている方がありました。T先生です。たしか当時琉球政府の文化財保護委員会のメンバーだったと思います。なぜかよく出会うものですから、いつしか私たちは先生と立話をするようになっていました。先生の話には、イザイホウのイの字も出てきません。久高島の植生について、実物の植物を指し示しながら、話をしてくださるのです。その話を興味深く聴いているうちに、私たちの心は自然と安らぎ、とても落ち着いた気持ちになるのでした。
先生には、道であったり、海辺であったり、井戸端であったり、不思議によくお目にかかりました。そんな先生のご様子は、本祭期間中も、まったく変わりませんでした。ほとんどの人が、目を血走らせて走り回っているのに、先生だけは飄々と祭事の周囲を歩いておられるだけでした。島の植物を通してイザイホウを見ておられるような感じでした。本祭期間中でもイザイホウのことは一言もおっしゃいませんでした。いつも島の植生について穏やかに話されるのです。
私たちは先生の話に接してどれだけ心休まる思いをしたかわかりません。
スタッフのA君は、主として進行と録音を担当しておりました。
彼とは松竹のシナリオ研究会で初めて会ったのですが、わたしより4・5才は若かったと思います。妙に積極的な、ずうずうしいと言ってもいいくらいな性格の持主でしたが、何故か憎めない男でした。
何かの時、「そんなこと言って君、恥ずかしくないのか」というと、「私のモットーとするところは、ハレンチになること、これです」といってにっこり笑うといったあんばいでした。私もキャメラマンのS君も、どちらかというと引っ込み思案の方でしたから、A君の積極性には、ずいぶん助けられたものでした。

本祭がせまる頃、メインの祭場ウドゥンミャーのキャメラ位置に悩んでおりました。
祭の全体像を捕えるには、どうしても高見の位置が必要だったのですが、それがないのです。本祭の前日、突然A君が、ちょっと本島まで行ってくると、出かけていったのですが、その夕方金もないのにどうして手に入れたのか、建設用の鉄骨足場を船に積んで、意気揚々と荒海を渡ってきたのです。さっそく組立て、現場にフカン台として据えつけました。
祭事の撮影にどれだけ威力を発揮したか分りません。他の撮影スタッフの中にもこのフカン台の恩恵を受けた人たちがあったはずです。
もう一つ、撮影用のフィルムが足りなくなってきたのを見て、どう交渉したのか、テレビ局のスタッフから2000フィート(約1時間分)のフィルムを借りてきたのもA君でした。これには後日談がありますが、今は触れません。
いずれにしても、A君は私たちスタッフにとってなくてはならない存在でした。
S君は、永い間一緒に仕事をしてきた盟友でした。海水につかって動かなくなったキャメラを三日がかりで直したあのS君です。彼は、対象にのめりこむようなキャメラマンでした。
本祭二日目、髪垂れ遊びが終った夕刻、暁神遊びが行われます。これは前日の夕神遊びに参加しなかった、午年生まれと乳飲み子をもった女で、夕神遊びと同じことを行うのです。この時はたしか8名だったと思います。私たちは、祭場で見ていたのですが、その時はライトがなく撮れないのです。

なぜかというと − 

前夜の夕神遊びの時、全撮影班が話し合い、島人に頼んで発電機の電気を引き、ライティングして待っていたのです。
ナンチュが「エイファイ、エイファイ」と祭場へかけこんで来ます。このとき、突然ライトが消えてしまいました。島人の誰かが、電源を切ったに違いないのです。私たちは、そんなときに備えてフライヤー(照明用の松明)を用意しておりました。すぐフライヤーを点火して、なんとか撮影することが出来たのです。どの撮影班も、私たちの灯したフライヤーの灯で撮影したはずです。
さて、二日目はもうフライヤーはありません。ところがS君はどうしても撮るといってきかないのです。ライトがない以上、撮っても写るわけがありません。S君は、「オレはどうしても撮りたい。写らなくても撮りたい」といいはるのです。私たちは貴重な160フィートを無駄回しすることにしました。でないとSの心がおさまりません。
撮影が終って、Sはちょっと恥ずかしそうにいいました。
「いいカットだと思う。必ず使ってくれ。」
東京へ帰ってラッシュプリントをあげてみると、延々と真暗な画面が続きます。そして時々、パッとナンチュの洗い髪姿がひらめくのです。それは観光客のスチールキャメラのフラッシュのおかげなのです。
映画のフィルムは1秒間に24コマまわりますが、フラッシュが感応するのはわずか1コマです。真暗ななかで、パッパッとナンチュのひきつった顔が浮かびます。このカットに、ナンチュの「エイファイ、エイファイ」と島の男たちの怒鳴る「フラッシュたくな!」「やめろ!」をかぶせてみると、実に緊迫感のあるカットになりました。
S君には申し訳ないが、やっぱり、このカットを作品に使うことは出来ませんでした。
実は、この三ヶ月間の撮影期間中にS君の長男が誕生しておりました。
彼は一言も言わなかったから、東京へ帰ってから初めて、私たちはそのことを知ったのです。
前のページへ 海燕社トップページへ 次のページへ
PAGE TOP

Copyright(C)2010.kaiensha.All Rights Received